ゆりかの日記

心にうつりゆくよしなし事

少し早めの一年のまとめ

年末には少し早いですが、早めに1年の総括をして、残りの時間を有効に使いたいと思います。なおもう少しで平成終わるの衝撃的すぎる。

 

 停滞と成長の1年

この1年は、元彼により予定が大幅に狂ったこと、それに伴うWhat-the-hell効果、によりunproductiveな時間を多く過ごしてしまった。このダメージを都合よく正当化することはできないが、学べたことはあると思う。

それは、付き合う人間に対する意識が高まったことと、それを健全なものにしておくためには自分の中身が芯が通ったものでないといけないという学びだ。

付き合う人間に対する意識、とは

友人なり恋人なり、お互いに心を許し交流する過程で、弱みを晒し、晒されることになる。これらはお互いの人生にとって重要な問題であるため、感情の深いところに働きかけ、ちょっとしたはずみで深い影響を与えてしまったり、逆に影響を受けてしまったりもする。

だから、どんな友人とどういう関わり方をしたいか、ということは、一度意識的にデザインした方がいい。そしてそこから受ける影響は、基本的に自己責任だ。(もちろん、外生的で予測不可能なイベントは多くあるし、それが人生というものなのだろうが)

健全な人間関係を築くために必要な自分の条件とは

  1. 何を取り入れて、何を拒絶するか、これを理性的に判断し、遂行しきるには、自分の判断に対する信頼(自信)が必要になる。

    昨日デートした相手に、自殺未遂をほのめかし元彼に振り回されて1年を無駄にした話をしたら、「ドライだと思ってたけど、意外と優しいんですね」と言われた。
    私の、理性的に判断し実行するという部分は、そうしてこなかった人にとっては「ドライだ」という印象を与えるものだろう。もし私が相手に入れ込んでいたら「ドライ」な自分に対して恥ずかしく思い、自分を変えようとしていただろう。しかし、自分は自分の基準を持って判断することが正しいと思っているし、そうすることが結果的に正解だった局面も経験しているから、その部分を変えようと思うどころか、むしろ自分の能力だと思っている。
    あえて言えば、そうした印象を与えないようにより気をつけよう、というところだろうか。

  2. また、そもそも、感情に流されず判断するという誇り/セルフイメージがないと、どうしても流されてしまう。

    恋愛のドキドキは、やはり理性的な判断を超えたところにある。頭ではこの人はチャラ男だ、近づかないほうがいい、とわかっていても、ドキドキして考え続けてしまうし、途端に人生の風景が明るくなったりする(ありがとうございます)。ひょっとして、こんなにドキドキするなんて、この人が運命の人なんじゃないか、結婚したら楽しいんじゃないか、なんて妄想も湧いてきたりする。
    ここで、よくよく考えてみたら、自分は「自分の伸ばしたい能力を自分より持っている人」に魅力を感じやすい。しかし、結婚という意味では、夫婦で能力のポートフォリオが分散している方がいいはずだ。つまり、自分が人を好きになるメカニズムは、「学び」には役立つけれど、「共同生活の相手選び」には役立たないのである。
    ここまで考えが進んでいる時点で、どうするか。ドキドキに耽溺するのか、それとも判断分岐点をイメージして、その時に判断基準にみたなければ好きでも断ち切るのか、ここでぶれずに選択するためには、やはり自分の判断メカニズムに対する誇り、自分はそのように判断できる人間だというセルフイメージが必要だ。
    ここで、セルフイメージは、自己存在への意識だけでは成立せず、他者との相対化、あるいは「自己を見る他者」への意識によって形成されるので、セルフイメージが低下しているときは、過去の成功体験の想起に加え、人との交流が有効だと思う。

考え抜いて、答えを出すこと

どういう問いの解き方が一番早いか?ということも考えながら、「何が答えを出せていない/とくべきイシューなのか」を常に言語化し、答えを出し続けていけば、迷いはなくなるはず。
また、自分の問題になると解けなくなったりするものなので、一度客観化して、友達として自分にアドバイスしてみたりするといい。

一旦箱の外に出たり、他の人の意見を得ることも有益だが、一度自分で上記プロセスをやってからにした方が断然学びは多い。

大人として、自分の人生に責任を持ちつつも、周囲に与えることができる人間であること

結局、自分は周囲の人たちに支えられて生きているし、支えてもらうことができなくなったとき、窮地に陥る。
だからプラクティカルに必要なことでもあるのだが、そうした打算ではなく、自分が与えられる時に、何かを与えることができるようになること。与えられるように努力すること。これができるかどうかが、人間としての余裕、成熟度なのかなと思うようになった。